
![]() |
| ●…農耕民族フツ族と、遊牧民ツチ族 かつてザイールと呼ばれたコンゴ民主共和国と、タンザニアとの間には、二つの小国があります。その南側がブルンジ。古くからこの地に住み、農業を主とするフツ族と、元来遊牧を生業としてきたツチ族の二つの民族から成るこの国は、その北側のルワンダと同様、1962年の独立以来、両者の間に国家の主導権をめぐる血腥い対立が続いてきました。 一般に農耕民族と遊牧民では、前者が比較的温和なのに対し、後者は勇猛で誇り高く、時として農耕民族を征服し、支配します。日本のお隣りの中国でも《元》が、北方の遊牧民蒙古民族による征服王朝であったことはご存知でしょう。 国民の8割以上を占める農耕民族フツ族は、北方からやってきた長身の遊牧民ツチ族に征服され、長い間ブルンジでは少数のツチ族が王家や貴族、軍隊などの支配階級を構成してきました。 宗主国のベルギーも、こうした体制を認めていましたが、1962年に独立すると、両者の対立は次第に深まります。´66年にクーデターによって王制が倒され共和国になりましたが、ツチ族の支配体制は続きました。1993年に一時、民主的な選挙によって、フツ族の大統領が誕生しましたが、すぐにツチ族のクーデターで大統領は政権の座を追われてしまいました。現在もツチ族が政権を握っていますが、これに反発する多数派のフツ族は反政府勢力を結集し、各地で小規模ながら内戦を続けています。 ●…ウルンジからブルンジへ 独立前のブルンジは、ウルンジと呼ばれ、19世紀末からドイツ領東アフリカ植民地の一部でしたが、第一次大戦後、北のルワンダと共に国際連盟によるベルギーの委任統治領となりました。第二次大戦後は、国際連合の信託統治領に移行しています。 |
|
|||||||||
| ベルギーの統治時代、両者は行政的には一元的に扱われていたため、切手には《RUANDA URUNDI》の表記がありました。切手の図柄は隣のベルギー領コンゴとの共通図案が中心です。 1962年の独立に際し、土地の言葉をより忠実に映す《BURUNDI》と綴るようになりました。 ●…大地の巨大な割れ目、緑豊かな高原 地図をみると、アフリカ東部のナイル川源流域から南部のモザンビークにかけて、火山や湖が複雑に入り組んだ地域があります。欧米の地理学者が《リフト・ヴァレー》と呼び、日本では《大地溝帯》と訳される地球の巨大な割れ目で、景色の美しいことでも知られています。国土の南部が広大なタンガニーカ湖に臨むブルンジもその中にあります。 ここは赤道の僅か南にありながら、2000㍍前後の高原地帯のため比較的涼しく、降水量の多いこともあって緑が豊かで、農牧業も盛んです。特にコーヒーの栽培は広く行われ、この国の大切な輸出品になっています。 面積2.8万平方㌔㍍、日本では山梨、長野、岐阜3県を合わせたほどの小国ですが、人口は約600万人。3県の人口を上回り、アフリカとしては人口稠密な国です。平和であれば、その豊かな大地で幸せに暮らせるはずなのです。 ●…切手の変遷 ブルンジの一番切手は、1962年の独立直後、それまでのルワンダ=ウルンジの切手に《ブルンジ王国、Royaume du Burundi》を加刷したものです。しかし、ベルギーの統治時代やその前のドイツ領時代、また第一次大戦中のベルギーの占領切手も、フォアランナーと考えるべきでしょう。 ドイツ領東アフリカ植民地の一番切手は1893年。当時のドイツ帝国の切手に《Deutsch ostafrika》を加刷したもの。植民地共通の図案による正刷切手は1900年に発行しています。第一次大戦中のベルギーの占領下では、1916年にベルギー領コンゴの切手に《URUNDI》を手押しスタンプで“加刷”したものがあらわれます。考えようによっては、これこそブルンジの本当の一番切手と言えそうです。 1924年以後、ベルギーは植民地行政上ルワンダとウルンジを統合させ、前述のように切手表記も《RUANDA-URUNDI》となりました。 独立後のブルンジ切手は、動植物や民芸品などを紹介したものが目立ちましたが、1966年に共和制になってからは、一時乱発気味となり、この国とは無関係な宇宙物や泰西名画などがみられました。しかし、´90年代に入ると発行政策も次第に落着きをみせてきます。民族対立による愴惨な内戦の影が、少なくとも切手の世界にまで落とされていないのは、あえて幸いと言うべきでしょうか。 |
||||||||||
![]() |
||||||||||
| 猛禽類9種/ブルンジ | ||||||||||
|
|
||||||||||
|
|
||||||||||
|
|
||||||||||
| 国めぐりこぼれ話 |
||||||||||
| 旧ドイツ領東アフリカ植民地とその切手 イタリア王国とともに、19世紀のヨーロッパ列強によるアフリカでの植民地獲得競争の最終局面に割り込んできたドイツ帝国は、東アフリカのほか、ギニア湾岸のトーゴやカメルーン、それに西南アフリカなど、意外に広い地域を支配下に収めている。このうち、東アフリカ植民地は、カメルーンと共に、ドイツが熱帯農業などの開発に最も力を入れたところであった。敗戦後、ベルサイユ条約によって、ドイツ領のすべての植民地は、国際連盟の委任統治領となり、列強が実際の統治を行うことになった。 この東アフリカ植民地の大半は、英国が《タンガニーカ》として統治することになったが、その旧領がかなり広いこともあって、戦時中他の列強が隣接植民地から軍事行動を起こしていた小地域については、西部のルワンダ、ウルンジ両地方をベルギーに、また南部のキオンガ地方はポルトガルに、と言うように、いわばお裾分けをしている。キオンガ地方では、加刷ながら4種の切手を発行したが、その後ポルトガル領モザンビーク植民地の一部となった。 第一次世界大戦とは、アフリカの人々にとって、いわば列強による第二次アフリカ分割に過ぎなかったのである。 |
||||||||||
|
|
||||||||||
| ※このコーナーは「続・世界国めぐり」(2004年刊行)から引用しています。 内容が現在と異なる場合があります。 |
||||||||||
| この記事が掲載されている本はこちら です | ||||||||||
エレオノラハヤブサ、チゴハヤブサ、ラナーハヤブサ、アフリカワシミミズク、トビ、サンショクウミワシ、カオジロハゲワシ、ヤシハゲワシ。